体験は山や災害などをネガティブな事柄と の出会いでも声における運命的な出会いの ようなポジティブな出会いでもそれぐらい 出来事がある以上共通して起こることで あるネガティブな偶然ごとでは日常が人間 にさらされた仮囲いにすぎないことに 気づき不安がかかってられるポジティブな 偶然のことではこれまでのつまらない日常 生きている自分を偽りでこれから本当の 自分だという考え生まれる それらはいずれもがある事実性に触れた ことにある変化の逸話によって与えられた 感情と言える そしてこのガールの 脱出の背後には他でもあり得るのはなぜ私 に合わない可能性もあったのになぜ今ここ でといった交換可能性が存在する 恋の始まりの出会いであればこの交換可能 性と偶然性を逆手にとって出会わないこと もあり得たのに会えた運命というふうに 偶然性を必然性に添加することもできるん だろう こうした態度はガーンという姿勢を ありがたさえと反転させて唯一性を管理 する態度につながるものである 災害病にしても遭遇することの中にあり がたさんを目指した誘致性を感知すること などできるだろうか 止めましょうか えっといいですね私のなんか超ネガティブ な話だというなんか運命の声 みたいな分かりやすくていいと思います こうしたら1件で ポジティブな出会いでも予想外の出来事 である以上共通して起こると で ネガティブの出来事だと 日常が無の支援された狩小屋であると 全て無意味ですよ 気づき不安がかき立てられるけど ポジティブな偶然では それまでのつまらない日常安定したんです よね 安定には2つの要素があっていい要素と 悪い要素があるんですよ ね何も来ないつまんないって いうそれは偽りであって 本当の自分を見つけるのだっていう高揚感 が生まれる とつまり 自分たちのその自分たちの生活とか世界が 無であるっていうことは逆に言うといい 意味でもあって例えば自分たちがいいと 思ってるものはもっと言われた方が絶望 するけど今まで最悪だと思ってるものが いやそんなものは無難だぜって言われたら あそっかじゃあ変えられるんだなりますよ ね だからそのどこのポジションにいるかに よって変わっちゃうって言ってるわけです よ プラスのものが見出せる時もある これはがある事実性に触れた とこのガールが脱出するってことは他では ありえたのになぜ私っていう 交換可能性と常に 消耗する と 交換可能性と偶然性を逆手にとって出会わ ないこともあり得るために相手の運命と いう風に偶然性自然に変化するということ ですね つまり他のこの何か 偶然時にその 偶然に出会う」っていうこと 偶然の出来事に出会う出会うということ 世の中は偶然なんだっていうこと じゃあその事ってのは俺にも消えたし他の 誰にも消えた じゃあなんで俺の身に起きたんだって そこに必然性を見出しちゃうっていうね 方法かなと でこの偶然性が 偶然であるっていうこと ががつまり 偶然であるということは 交換可能であるということで 交換可能である 可能ででも俺に起きたという意味において 必然性に変化する 面白い 偶然が必然な変わるわけですよ それがありがたさへと反転させられるって 言っ てね と反転させて唯一性を管理するだからまあ 単なるたら単なる偶然なわけですね単なる 偶然を ありがたさ 説明しがたい必然 必然性 えっと天下させることによって 唯一性自分自身の 自分が自分なんだってことを 偶然性から 交換可能性を通って 必然性 その態度がやっぱ唯一性を感知するための 自分がここに存在するんだっていう価値に つながるそれはそうです よ自己肯定感は高松 なんだけど 災害や病に 遭遇することの中にありがたさあれどうし て 何だろうねこれ ねちょっと 想像しがたいけどちょっと読みましょうか まずから続けてみましょうか まず注意しておきたいのは 災害病に見舞われることは決して運命と 呼ぶべきものではなくあくまで僕偶然に すぎないということだこのことはいくら 練習をしてもすぎることはないそもそも 危機事態が有用 が言うように運命とは偶然が人間の実用性 にとって 革新的人格意味を持つ時に必要性を感じ られるところで成立するものでありそれは 人間の偶然に与えた名称に過ぎないその上 で私が言いたいのは 偶然ごとに 遭遇したり 遭遇したことでがあることの事実性が私が あることにありがたさを知る契機となって そこに唯一性が宿ることはあり得るのでは ないかということだ ただしそうした経験は 偶然に0.1兆が不安定化しがあるの自立 性に直面しただけだ手に入らない そこから再び日常という他者とともにいる 場に 戻ることが必要になる 繰り返してありますよねつまり不自立者が 言うその偶然なんだけどその 偶然もう 交換可能性っていうものと引き合わせる ことによってこの偶然は必然なんじゃない かっていうその 偶然の別名としての必然性を感じた本当に 否定するじゃない本当に必然的ではないん ですよ 必然性があるように感じられる偶然って いうこと その必然性という別名を偶然が必然性と いう名の別名運命というのの別名を持った 時に ガール自立性が私があることを言わずを 知る経費となってた だからありがたさっていうこととこの唯一 性っていうものがつながってますよね私は 私だけなんだと 私ってのは好感不可能なんだけどね 面白いよね 偶然が 交換可能性っていうものと引き合わされる ことによって必然に名前が変わり その 偶然はまたありがたさという言葉にも 変わっていくわけです ありがたいが故に 存在が非常に希少であるがゆえにもう すでに唯一性としての 交換不可能性がかけがえのまさか成立する となるほどね でも偶然においてなるほどね ちょっとこの辺はだんだん議論が難しく なってきましたからねまあちょっとこの辺 まで見ればただもうだいぶ問題も解ける でしょう この辺でありがたさのね中身を見ていき たいかなというふうに思いますよ ちょっとなんか 甲状腺が足りないような気もするが ちょっとねまあいろんなこと思いますね これね そういうね山や災害などのネガティブな時 に起きるかっていう話だよね 皆さんユダヤの洗面思想って完全これです よねなんで自分たちはこんなにひどい目に 遭うんだ何で私たちであいつらじゃなくて 私たちがこんな迫害されるんだっていうの それを私たちが選ばれたから だってありがたいことなんだと選ばれし ためなんだって言って自分たちの アイデンティティにするっていう だからその迫害民たちがその迫害された人 たちが自分たちのことを選民だと思うって のはある意味正しいんですよ ねそれは 恋人あの運命の恋人に出会ってそれを 恋人に会って それを自分の運命だっていう風に感じると 同じ思考回路なんですよ でもねこれそうじゃないケースもあるんだ よね 今私は強烈に思ってたのはなんか アウシュビッツの生き残りの人たちなん ですよね あと特攻隊の生き残りの人たちです ね通称特攻崩れなんて言ったり しますあの人たちはねもうあれなんですよ ものすごい命を粗末にするんですよね 自分たちは 死ぬべきだったんだって考えちゃうんです よアウシュヴィッツで生き残った人ってね なんかね結局なんか色々なんで他の人は 殺され私は生き残ったんだって考えるん です まさしく偶然じゃないですから アウシュビッツの中で生き残るなんて そこに何かしら必然性を見出して自分の 優越性に昇華するかっていうとそれが やっぱり行かなかったんだよな ありがたさを知るケーキ自分の唯一性に 宿る ことはなく自分もあそこで死ぬべきだった んだっていう風にしてその 交換可能性の方に行っちゃうんですよねで 多くの人が自分で命を絶つんですよ なんでかって言うとそこから再び日常と いう立場にいる場所に戻ることが必要に なったからみんな戻れなかったんだろう ねあまりにも強烈体験が強烈すぎて そうなると 交換可能性の方に行ってしまうん だ私はあの時死ぬべきだったんだって いうなんかねすごい大量に死者が出る事件 で事故でほとんど数少ない生き残りのサー チってのはこういう思考な自分もあの時 死ぬべきだったんだって 中には強い人がいて自分が生き残ったこと には意味があるって言って例えば戦場から 戻ってきた人がそうだよねなぜ自分は 生き残ったのかそれはこの戦場の体験を 後世の人たちに伝えるべき だって言ってその立派な人生を送るという 方向性に行く人もいるし逆に俺はあの時 死ぬべきだったのに死にそこなったんだっ て言って自分の 交換可能性 格外のなさの方に行っちゃう だから俺は死ぬべきなんだっつって死ぬ べきなの心臓なった 価値のない人間なんだっつってひろぽん 中毒になって 野垂れ死ぬみたいな ちょっともうたくさんいたんですよねここ の境目がちょっと気になるよね 何がそれを分けるのか ここまで考える奴絶対解けるでしょ