よっしゃ、じゃあボタンの中からいきましょうか。 じゃあ、かやさん、早速、文化と自然の間になると。 文化と自然の間には、確かにアナロジーが成り立つ。 自然から文化が生まれるとすれば、文化は根源的自然を表現する。
その意味において、自然と文化は互いにメタファーの関係にある。 しかしそこには因果関係によって示されるような 一対一の決定は足りたたない 厚地が日本の愛らしい自然から 優美な観音像の存在を導き出し また観音像の印象から自然を説明するこの論理は 結局的なメタファーの性格を表している しかしそれは当のメタファーが異なるメタファーによって 相対化される可能性を伺わせることなく 自己完結的に内へと閉じている 言い換えればその正当さも不当さも検証することができない構造を示している こういう抽象的な内容を見たときに 具体例を持たないとですね、何? わかったような、わかんないような、もしくは何というかわからないとか、そういうレベルになってくる。 こういう時にいかに皆さんが実際の具体例をストックとして持っているのかっていうことがすごく大事なと思います。 さて、自然と文化の間のアナロジーですね。
アナロジー、一応これ、中…アナロジーって前中通したっけ? えっと… アナロジー前に出て…中… アナロジーからで、ちょっと待って、アナロジーからでやりましたね。 これ類比的なというやつですね。 類比。
文化と自然の間で確かにアナロジー。 要するに、似てるって言ってるんですよね。 自然から文化が生まれるとすれば、文化は根源的自然を表現する。
つまり、言ってしまえば、文化は自然の鏡であると。 そういう意味において、自然と文化は互いにメタファーの関係にありますよ、ということですね。 例えばですよ例えばですけどこの自然と文化が互いにメタファーっていうのは これ中田 ストッ この例で言うとちょっとこれ互いにメタファーっていう言い方がちょっと 一発に引っかかると思いますよ まずこれ互いにメタファーということってこれ具体として私がよく使うのは雪と花です これね、高校生の文章とかでよくやるんですけど 互いが互いの比喩となるっていう表現があるんですよ これどういうことかっていうと 雪のような花、花のような雪 皆さんこの表現どう思いますか?
雪のような花、花のような雪 これあんまりいい書き方じゃなかった まず雪のような花って要するに綿みたいなね 白くてぽわっとしたですね 可愛らしいやつですね それは雪のような花 と表現する と次の瞬間ですね ひらひらと舞い散るですね粉雪ですね あれが 花が舞っているようだ ということで、この雪のような花が成立した瞬間に、花のような雪も成立するんですよ。 互いが互いを連想させるんです。 雪を見ると花を思うし、花を思うと雪を思うんですよ。
これが互いのメタファーというか、たとえ。 これが互いに互いの火となるという。 互いがメタパートナー こういうことです 要するに花があったときに 白い花がふわっとあったときに ただの春の暖かいイメージではなくて、なんかちょっとシャッとしたという雪のようなイメージ、雪が降り積もっているようなイメージを見てしまったり、逆に雪を見た瞬間に花みたいだっていう。
となるとここにはどんどん連想が生まれていくわけ。 例えば雪の連想として冬があるわけ。 花の連想として春があるわけ。
つまり雪のような花っていうのは春の中に冬を見ることなんですよ。 対して 雪っていうのは冬を、これまたメタファー、メタファーしてるわけ。 花っていうのは春をメタファーしてる、これ結びついてる。
だから花のような雪って言った瞬間に、雪を見たら冬なんだけど、その中に春を見出す。 このようにですね、メタファーとか連想っていうのはどんどんどんどん繋がっていきます。 一つがメタファー、比喩的な活動を言葉が起こすとですね、それがイメージが連鎖して、 ていってどんどんどんどんメタファー膨らみ上がっていくんですねそれを使ってやる 芸術がいわゆるしですよ イメージのイメージと言葉の技術です でまぁそれに関してはまあ第3章とかねえいろいろところ私は 喋ってますのでそっちの方見てもらうとしてこれが互いに互いの比喩となるってことです で今回のケースで言うと文化と自然の間の穴へと互いにメタファーをするってことは どういうことかというと例えば文化と自然っていうのを置きましょうかなんだろうな 例えば 試合例えば日本だったら木がたくさんありますよね 木がたくさんなんかちょっと違うな 水が豊か 水が 豊か水が豊か水が豊か水が豊かで じゃあいきましょう 山水っていう自然ですよ日本はね 山があって水があって岩があって 皆さん想像すると固くないですよね 山の中を想像してください 水しぶきがねこうバーッとなってくる 日本人が自然と言われて思い浮かべる自然は ああいう自然ですよね でじゃあそれをですね 実際にメタファーにするとどうなるかというと いわゆる枯山水とか日本式の庭園になるんですよね 枯山水はちょっと違うか 日本式庭園 日本式庭園って何かというといわゆるそのね これはもうてギリギリ話せないであんまり皆さん聞いたことあるので 省略しますけどまああれですよあのシンメトリーじゃないやつですよね ベルサイユ宮殿みたいな左右対称で石造りのものではなくてまるで自然を模して作られる っていう 自然の模倣になるわけですよ っていう風になってくるで もちろんですよでこれに食べられた場合の要素ないじゃんって話なんだけどこれねあの どういうことかっていうと あくまでこれとお互いがイメージなん てのは日本式庭園で日本が人間や日本人は自然を模倣するんですよこれただの方じゃない ですよ 当然理想的なものを自然の理想 もう方するんですね 理想的イメージ 実際の自然じゃないわけ 現実の自然ではないやっぱ若干おかしなことになるわけですよね まあこれよく具体例で私話したことありますけど例えば京都のねあの銀閣とか行きますとですねそこに入ると 苔があるんですけど実はビローロコケといって緑なのかすごいなのかこう すごい美しい苔が好まれて なんていうかね、違うですね、ダメな苔ってのがあるんですよ なんか汚い色の苔ですね それはもうひっぺかすんです、庭芝 岩に生えた 苔をひっぺがして美しき緑の緑色のまるで ビロードのような美しい 絨毯のようなですね苔をですねわざと生やすんですよ そうすることによって 理想的自然のイメージっていうものを作り上げる だからパッと見自然そのままを模倣しているようでいてそこにはかなり日本人の 日本人のって言い方ちょっとおかしいですね その地域の人たちが持つ自然の理想的イメージとの反映された日本人 していてが出来上がるんですよ そうするとですよ どうなのかというと この山水っていうのはこれねちょっと 導入編でやったことあるから皆さんあの辺 やった人は覚えてるんですよ山水って日本の 自然のごくごく一部なんですよ もちろんそうじゃないところもたくさんあるわけ 例えば白神山地みたいなジャングルみたいなところがあって、もののけ姫の、なんかちょっとジャン!
本当に一人入れんの? みたいな いうような森もあったりとかして、実は日本の自然ってのは別にそんなに 固定的じゃない、どこもおかしく同じ光景が広がっているってタイプの自然じゃないんですよね もちろん自然も別に全部優しいわけじゃない ないし 藤口のが沼地みたいなたくさんあるんですよ その中も 彼をみんな見るようなら日本の自然でやっぱ いいよねー よくない自然の方はひたしたら人間が手を 加えてなんていうか今夏 改変しちゃってするまあそれが今一番が いた臓器場所がないんだよとともにみたい ですあれ自然にじゃない人人これ だからたがいたたがのヒューターでこう いうことを要するにいい 日本の自然の一部が日本式庭園として理想的に日本人の自然 日本人であえて言っちゃうけど 日本という地域に住む人たち 日本と呼ばれる地域に住む人たちの理想的自然のイメージが作り上げられ それが現実の自然を連想させる 現実の自然もそういうもんなんだっていう形で反映してしまうわけですよね 鏡が反射して自分になるわけですよ 君たちは例えば鏡に映ってる自分を見てください 例えば鏡に映る自分は自分を反映してますけど でもその鏡を見て ちょっと今日ブサイクと思ったら まつ毛頑張ったりとかね 前髪頑張ったりとかいろいろやるわけですよ 時間かけてね そう考えると鏡に影響されてるという風に言えますよね だから自分を反映したものを見て その自画像ですね 自画像みたいなものを反映して自分に戻すんですよ 自分をそっちに近づけていくみたいな運動が 発生するわけです 筆者が言っている文化と自然ってのは こういうようなことを言っているんだと思うんですね でしかしだからそこがないでねえ文化と自然の間には鏡に映る自分のようにその自分を 映しているものでありながらつまり鏡の中の自分はただの自分の模倣でありながらその も方を見て僕たちはですねその 方物を見てそれ影響されてその自分自身を改善しようとする そういう相互相は相互相関まあそうとか言ってみたらそれと同時ですね 相関的な関係がある でも そこには因果関係によって示されるのは一対一の関係は成り立ってなくて 例えば 端的に言うと 例えば日本の愛らしい自然っていうものを そこからですね 優美な観音像の存在 っていうのはこれが現れなんだ また観音像の印象から自然を説明するつまり日本の怪しい日本の自然がこれを生んだんだ っていうことは日本の自然もそういうそういう意味なんだ わかります? この優しい 観音像には日本の優しさが現れたということは、こんな観音様を作り出す自然というのは優しいに違いないというですね。
よくよく考えると、ただの思い込みではっていうような矢印がここに働くんですよ。 こうしたことによってこうなる。 この論理っていうのはメタファーの作品。
互いが互いの比喩となる。 ということがあって言うと そこに因果関係は全く存在しない。 別にいいわけですよ。 例えば花を雪と例える必要もないわけ。
花を雪に例える必然性とか、いわゆるその因果関係、何て言うんですか。 論理的な根拠って全くないですよ 別に他でも良かったわけですよ 別に他でも良かったのにそうなってしまった たまたまの要素がでかい いわゆる恣意的ってやつですよ 第4章やった人は皆さんこの言葉ご存知ですね 第3章が恣意的 要するに僕らが好き勝手にそっちの方を見てるわけ ですから必然性っていうのは一切ないわけです 因果関係っていうのは言ってしまえば必然性ってこと そこには必然性がある だからどんな人間も日本みたいな自然に触れたら そういう発想をするはずだっていうのが必然性です 因果関係があるということは必然だということ。 必然だということはどういうことかというと、さらに言えば反復されるということです。 誰がやっても反復されて再現されるということです。
でもね、そんなことないんですよ。 そんなものはない。 だから因果関係があるわけではないということ。
因果関係がないということは必然性もないし、反復再現性もないわけです。 だから一対一の決定っていうのは成り立たない。 じゃあどうなの?
反対ですよね。 これがずっと私が言ってきている恣意的な、恣意性ですよ。 たまたまその人のその場に行ったら、その人の意思とかそういったものによって決まってるわけです。
恣意的に決められたわけです。 だから、東のメタファが北のメタファによって相対化される可能性をうかがわされる。 つまり、 例えば雪を見て花を見ないような文化だってあるわけ。 例えばさ、雪見てさ、シベリアみたいな、ブリザードみたいな国だってあるわけだし、 同じ雪を見ても別のものを連想する国だってたくさんあるわけですよ。 雪が全部花につながるわけじゃないわけ。
同じ雪を見てても。 だから雪を見て花じゃなくて例えば金属を連想するような組み合わせがあるんだよって言って ああそっかそうなんだって言ってその花と金属を比べる 相対化してああじゃあ花っていう比喩はあんまりいまいちなのかなとかね そういうふうに他の人と比べてですね 比較してそこに客観性みたいなものを 導き出すってことはないんですよ 自己完結内なんですね 自己完結的に内へと閉じてる これすごく大事ですね 皆さん鏡の中の自分を可愛くしたりかっこよくする時に 他者との比較ってしてます? ここしないのポイントですよね あくまでその鏡に映る自分と現実の自分っていうものを往復してるじゃないですか 往復してるじゃないですか で実際に 今日私構いってなって外出た時に 世の中にルフする 加工された 加工されたというか 例えば 化粧品の 広告とかポスターが乗るようなさあ遺伝子 モンスタープラス最新の整形技術という 誰にも勝てないですねもう顔面モンスター んですよですよ カメの先ほどなく本日逆な方なんでもう なんかそのまあ顔面のプロみたいですよ 考えです アップスターの前ととってくるんですよ 別にはタイプさんの名前はずめわかんない けどしげしげと思ったらさ 顔面がさあんな拡大したポスターに貼られてるわけよ 要するに人間のサイズとは言わないまでも 上半身ぐらいの顔がポスターにドカンと貼られてるわけじゃないですか あれを晒されてるっていう それに耐えうる おそらく万人が見て可愛いと思うじゃないですか それは加工されているんだろうけれども いや、やっぱすごいですよね。 そういったものと比べちゃうとね、あらゆる大半の人たちはただのブサイクになり果てるわけですよ。
でもね、皆さんどうですか? 鏡の中の自分を磨いている時、そういうイメージって入り込む隙あります? ないですよ。 なんでかっていうと自己完結内だ それね他のイメージが入り込むとですね そういう作業はもうできなくなります アホらしくなる 無理じゃんどう考えたって 私何かどうあがいてもブスだわって言ってあってやめちゃう もしくはバカらしくなってきたわみたいな なんでこの必死に前髪セットしてるんだろうって言って 男の方はアックスを締めちゃうんですよね それが自己完結的に閉じていると やっぱりずっと自分と鏡の間を往復する 日本の自然はありらしいんだと だからこのような優美な観音像が生まれるんだと この優美な観音像が生まれるということを背景に持つ国は やはり自然が優美に違いない って言ってくるくるひたすらここを回っているんですよ 例えばいやいや自然厳しいとかありますよと 青森県の冬とかやばいじゃんみたいな そういうツッコミはなし そういうツッコミはなし そこをくるくるくるくる回る だから批評とか他からの評価とか 評価される余地はないんですよ だから正当さも不当さも検証することができない 正しいとも言えないし 間違ってるとも言えないわけ 科学的じゃないから 思い込みとも言えるし 思い込みじゃないとも言えるんですよ だからもう一生主観だからね でも客観性の上の土台に乗ってないんで だから否定することもできないわけ だからここがポイントですよね