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自己と生命の動的関係

さて、じゃあ柔軟なく。 宮田君、じゃあここでというところから読むところでいいかな。 ここでご自身のことを考えてみてください。 周りの人にあなたはこういう人物だというイメージを与えているのは 体や思考、つまり個体としての特徴ばかりではありません 持ち物、家族、付き合いのある人たち、家計、学歴、過去の 教識等々、物であれ人間関係であれ、様々なものが総合されてあなたのイメージが作り上げられています これすごく大事だね とりあえず、いくよ そして実は自分自身もそのようなイメージをもとに 私とはこんなものだと思い込んでいるのではないでしょうか 私というものから地位や業績や愛用の服や家などの全てを取り除いて しっぱらかにしたらそれでも私は私と思えるでしょうか そうこれ私から前から言っている文人の考え方に極めて近いですよね そしてちょっと前にあった身体論 私たちの 私たちは拡張したり縮小したりするんだという身体の話にも近いです つまりですね本当の私という思考が結構危険なんじゃないかっていうことだよね つまり人間を粒子的に捉える、個体的に捉えるということですね 個体的に捉えるというのはちょっと厳しいと 現実的に考えると 実際持ち物、家族、付き合いの人たち 家計、学歴、家族の持ち物である人間関係であれ 様々なものが総合されて あなたのイメージが作り上げられていると なんだっけなぁ 宮の子にする極めてこれだからその差別的であんまりよくないんだけど 時代女ってことはしている時代女性 意見可愛らしいんだけど付き合っているの結構大変みたいな だからその中に負け方みたいなのでよく言われるのが携帯がバキバキとか カバンの中がとっちらかってるとかですね そういうことをよく言うんですよね そんなの別にそれにかけたことじゃねえだろって話なんだけど どういうことかって言うと その人の性質みたいな特徴みたいなものが その周りに現れてるわけよ 現れてるし逆にだからこそ そういったものも含めて自分である バキバキ言われたねスマートフォンとか っていうのを含めて自分であるという言い方ができるのかもしれない 家計学歴過去の業績 物では人間関係で様々なものが総合されて あなたのイメージを作り上げられている こういう時は頭の中で常に縦軸横軸で作っていく 物事が羅列されている時っていうのは頭が混乱しがちなので 頭の中に一つのルールを作る どんなものでも 縦と横で整備してあげれば大体のものは座標として提示することができる 例えば横に矜持的なものをとって 同じ時間の別の場所 縦に通じていな歴史だよね 私これこの図で今まで散々書いてきたから 耳たくかもしれないけど 例えばここに書き上げされている様々な羅列 例えば家系学歴過去って結構縦の列だよね でも付き合いのいる人たち家族持ち物 人間関係って横になるから 横に広がっていくもの縦に広がっていくもの まあいろいろあるけどこの相対が自分自身なんだぞって言ったわけだよね なるほど 通じ的なものと共じ的なものっていうのを頭の中に思い浮かべてですね こういう物事の羅列は掴んであげましょう 自分自身もそのようなイメージ イメージのもとに私とはこんなのだと思い込んでいると 私というものから余計なものを取り除いたら自分と言えるのかって言うんですね 結論としては言えないと 11段階に行きましょうか 私とか個体とか 個体イコール私とは言えないと言っているんですね 個体すらも、さっきこれだね、動的平行的に考えると 非常に怪しい。 物理的にも精神的にも人間っていうのは、明確な境界を持たず、ファジーなモーマンだと言えるわけです。

今まで並んだことが繰り返されているというイメージです。 私の発言を捉えてほしいですね。 11段落、10になると、もう続けていってみましょうか。 環境落差そうですってことですね。 環境があってそうです。

環境はその中で生活していない死んでいるものですが、それ以上に私です。 環境が私を作ります。 そして環境は運命共同体です。 って言うのです 生物は生きていけないん そうですね私の私が拡張されていますね 環境だって私の一部だって言ってい なぜなら環境ってのは運命共同体だと環境 がダメになったら自分をダメになった その環境によって自分が作られているから ねっ じゃあ続けて人中になるもちろん ている 4分 持ったわけではありません 私の 100%ですが 代わりの度合い 私とは変わり かなり 縁の薄いものまで私のそのは 答えを超えて大きく広がっています 私は身の回り延長しており 思うほどには境界がはっきりしてはいないものでしょう そして周りをどう取り込むかによって 私自身が変わっていきます そういうものが現実の私だと思うんですね でもこんな風には普通考えません それは現代人は流出的視観に支配されており 過去として外部から区別されるこの個体のみを私だと考え 普遍の私が存在すると思い込んでいるからですね そうですね はい それは現代的に粒子的私観、粒子的私観、 括弧たる、括弧として外部から区別されるこの答えのみを私だというふうに考えている。 周りをどう取り込むかによって私が変わる。

そして普遍の私っていうのが存在する ということですね これに関連して皆さんにちょっとね 見てもらいたいもの 前回ねちょっと粒子的事故のまさしく動画みたいなのを見てもらいました 今回あの福岡新津田のホームページが切り替わって して覚えてるからこの中こう周りの粒子が つぶつぶ粒子というかねなんかまたこの つぶつぶの一応じゃない 大きさも形もどんどん変化していく様々な つぶつぶがですねこの答えのをなんとなく 形成し通り過ぎ去りながら形成しそして また消えていくというですね いうところですね えっとじゃあちょっとね書いたところを読みましょうか。 彼さんこれ生命とは何かのところちょっと読みましょう。 これもうあれだ動的平衡のまあコンセプトは全部書いてあるんでこれすごく重要なんですよね。 読みましょうか。

生命とは何かのところ下から。 生命とは何か。 2007年に二重螺旋構造の発見に始まった20世紀の生命科学はこの問いに自己複製するシステムと答えた。

でも私はこの定義そして 利己的遺伝子の考え方はもはや古いと思う 彼らは生命を一側面からしか見ていない 生命の生命との特性は生命の内側のもっと深いところにある はいOK一回ストップしましょうか つまり 理個的遺伝子の考え方っていうのがでしたね これリチャード・オッキンズの考え方 生命が本能みたいな 生命というのは何のために存在しているのかみたいな 時に自己を複製する仕組みなんだぞっていう風に 大前提として捉えていたわけ 今までは子孫を残すだったんだよね 子孫を残すんだけどそこの単位を遺伝子に変えてみると 遺伝子プールを最大化することっていうのが 生命のありようなんだと 自分自身を複製していくシステムはコピーを残していくと 遺伝子を通じて 遺伝子を通じてできるだけ多くのコピーを 残していくことなんだという風に考えたわけです これは利己的遺伝子のあり方だよね。 遺伝子が、遺伝子プールが最大化するような動き方を生命はするんだと いうことですよね。 まあ 前回リチャード・ドーキンスの考え方として この利己的ってのが勘違いされて 一人歩きしちゃったよって話をしました だから今回の粒子主義の話 少しそれるんじゃないのみたいな いう話もしたんですけれども 逆に言うと リチャードーキンスはそういうつもりだったかもしれないけど やっぱりこの遺伝子っていうもの で生命自体を捉えていこうっていう 主流だったら間違いないんだよ 同期すかどう思ったのであれ そして遺伝子というものが僕らんだって言う 僕らっては遺伝子の器んだっていう考えた 僕らパッケージだね僕らのその僕らの人間 とかそういったものが2箱でその中に遺伝子 が入れられていると それを次世代に伝えていくため僕らは箱で伝えた 通過点なんだと 僕らの行動ってのは この遺伝子をいかに最大化するか 遺伝子プール内での 比率をいかに最大化するかっていうことが 大前提として本能として働いてるんだと これが 事故を複製するシステム 生命の定義を事故を複製する システムって考えるときの 僕らの生命のありようだよね 不幸が死んじゃうそれを批判してるわけ ちょっと違くないかっていう ええええええでもですね うんだから別に彼らは生命を一側円をしから一側面からしか見ていないと書いてね これはだから別にリコティで者の方が間違ってるって言ってないよ リコティで者の考え方もあるもちろん遺伝子いくの のを最大化するに動くっていう側面もある んだけどそれで生命を捉えたとするのは ちょっとおかしい 遺伝子だけで生命を説明するにはあまりの 生命たらもっと広く大きく豊かなものだっ ていうのがまあ福岡市長なんですね ちょっと先に行きましょうか じゃあその生命はというところから 読んでもらっていいかなまた金さん 生命が利己的に見えて、本質利己的ではない。 生物は互いに他を支えつつ利している。 つまり利他的で相互的だ。

絶え間ない物質、エネルギー、 エネルギー、情報の交換、それは自らを壊しつつ、作り替えることでなされている。 自らを壊すことは、エントロピー増大の法則に対抗するために、 生命は進化の出発点で選び取ったたった一つの方法だった。 生命の生命との予言はここにある。 これはどういうことか分かるかな? 生命は利己的に見えてその実利己的ではないって言ってたね。

えっと、まあこのちょっと正確なことを言うと別にドケイスはあれだよ。 生命が利己的だって言ってないよ。 その遺伝子っていうことね。 遺伝子を残すっていうことによって最大化するようになってきてるよっていうふうに言って。 筆者は、いや、あの そこだけ、遺伝子だけでそれを説明するのはどうなんだろうって言ってたよね ここは少し解釈が必要になってくるんだけど 何度も言うけども ドーキンスは別に個体が利己的に動かない時があるとは全然認めてるから 生命っていうものを ドーキンスとか生命科学やってる人たちの考え方の一つとして やっぱりどうしても個体っていう考え方が根強いんだよ どうしてもそうじゃん 僕らの体っていうのはさ まあ何て言うか、まあ当たり前だけど明確な境界はないよ、ないよとか言ってるけど実際あるじゃん、肌触ればさ なんていうか境目があるわけで だけど現実問題としてやっぱり個体っていう考え方が強力なんだよね その生命を全体の営みと動的に捉えようとするとやっぱその考え方からその、なんていうか 外れないといけない 絶え間ない物質・エネルギー・情報の効果、それは自らを壊す、作り変えることになされているって話ですよね。

宮田くんなんかね、一緒に動的抵抗の文章読んでもらったら分かるけど、僕らってね、もうあれなんだよね。 生まれてきて、 現代に至るまでほとんどの細胞すべて入れ替わってるんですよ だから僕らはあれなんだよね生まれてから現代に至るまで何十周もしてて 最初の頃の細胞なんか残っちゃないですよもう死んじゃって っていうことなんだよね。 で、ドーキンスはそこを固定しようとして遺伝子に着目したんだけど、おそらくその福岡さんは、いやそこは別に遺伝子で固定する必要ないって考えたんですよ。

遺伝して何とかしてそのねあのどんどんどんどんの新陳代謝で変わっていっちゃい 変わっていっちゃう人間というものをそのとられるだけや遺伝子は変わらないんだよなんて なんとか固定的に捉えます 利己的っていう言い方が良くないのかね要するに答えとして固定的にあろうとしていると いうふうに見えるけど実はそうじゃないんだと積極的に自分自身をぶっ壊してるんだぞ って言ってる そうだよね 実際私も体作りしてるからよくわかるんですけど やっぱりなんで筋肉をダイエットの仕組みとかね 筋肉が生成される仕組みとかってのがすっげー複雑なのよ びっくりするくらい複雑 でまたあるん 筋肉増えるって言うんだけどそれに実は違うんですよ 筋肉が常に分解される 常に作り出されるそのプラマープラスバイナスの バランスがどっちかに傾くと減るしどっちかに傾くと増えるんですよ 単純に何かを付け足していってるわけじゃないんだよ 僕らの体を変化しないように見えて常に揺れ動いているというそれもまあこの前の猫の 例の すごい変わってこれが動いていく図みたいな 現れてましたよね エントロピー増大の法則ってのはやったことあるね 前も説明した通り物事って常にバラバラになっていくと 要するにあれだよね物は腐るってことよ 常に整理された本は崩れていくし 部屋も汚れていくし 物事ってどんどんぐちゃぐちゃになってくるんだよ これをその法則に僕らがどう対抗するかっていうために 生命が進化の出発点で選び取ったのが この動的並行 つまり積極的に新陳代謝をすることによって 自らを維持するっていう じゃあ下の段読んでもらっていいかな 生命とは何か、ちょっとこれも彼さんにお願いします 生命とは何か、そう問われたら、私は動的並行であると答えたり 相補性を維持しつつ、分解と合成を繰り返し、危ういバランスを保つこと 隠して動的並行は私の生命論のキーワードとなった この映像は動的並行のコンセプトを可視化したものである この映像ってのはさっきのこれね これは本当はいけないんだけどちょっと動的並行の本あの福岡さんですねその本をです のんこすげーが綺麗にまとめている人がいたんだよね なんかその写真として見開きで本の前にこんなおいて誰も買わなくなっちゃうじゃん と思うんですよ 福岡さんでもない いいかもしれねえこの人で生物学者でかつ作家で最近この小説書いてんだよね ドリトル先生からパコスを救うだってこれちょっとば読んでないみたいな 今はロックフェラー大学の客員研究者やってるんですよ 彼の 青枠の教授でもある 彼の主張っていうのが面白くて 結局バイオテクノロジーなんて無理だっていう発想なんだよね バイオをテクノロジー化することはできないっていう だから今までアメリカってバイオテクノロジー産業がすごく盛んで 多くのバイオテクノロジー産業 生まれてるんだけど全てはポシャってるんだって 生まれてるんだけど全てはポシャってるんだって なんでじゃあそうなっちゃうのかっていう 日本のiPS細胞を見てください iPS細胞はうまくいかなかったじゃん結局 山中教授 日本の未来を担うみたいな重責のところで 研究が詰まっちゃってね 人間にとってすごくコントロールしづらいんですよね なんで産業化できないのかコントロールしづらいのかっていう その根本的な の部分を論じたのが動的並行ですよね。 めちゃくちゃわかりやすくて すっごい売れてる、この動的並行。 一瞬で教科書に載ったっていうのがすごかったです、スピードがね。 皆さんもぜひ読み物として 福岡さんの文書とかネットとか見かけたら、ぜひ積極的に読んでみてください。 えーっとね結局ね簡単に言うと想像と破壊の生命のリズムってこういうことだよね あのね要するに合成と分解って合成と分解ってのは同時に起きてるのね エントロピー増大の法則ってのは既に分解に だから放っておいたら僕らの体ってどんどん崩壊するわけ だから死んだ後僕らの体って腐るでしょ 放っておいたら 土に戻るじゃないですか そういうことなんですよ 僕らが生きているということは この分解に抗うってことなんだよね 抗うのが合成なんですよ 僕らはエントロピー増大の法則に反抗して体の中で合成を繰り返して合成していくってことを繰り返してこの文化に抗う やむことのない文化に抗うっていうのが 生きるということです そして今君たちは成長の過程にあると 二十歳ぐらいまで体って大きくなりますよね 大体 そういう時って分解量も合成の方が大きいわけだから この坂道を登れてるんだよ なんだけど俺みたいなおっさんになってくると もう わかります?

剛性パワーがだんだん弱まってきて 坂道を転がる上に行くところから 止まってるわけよ完全に 止まってるんだけどそれは 止まってるに見えるだけで 俺としては一生懸命合成してる。 文化のスピードとは逆行しちゃってるから、止まってるよ。 でもこれがだんだんさらにいくとですね、 私がさらにおっさん化、おじん化するとですね、 この合成パワーがもう相当下がってきて、 そこエントロピー増大の法則に逆らえなくなるんですよ そうすると今度は分かります?

文化が強くなるから坂道を転げるようにする 体がちっちゃくなってくるんだよ 最終的に 死に至るということですね。 熱力学、いや書いてあるね。 熱力学第二法則。

万物は崩壊するということですね。 生命、その生命の対抗戦略が動的平衡であると。 つまり分解と合成ですよね。

これはいいや。 っていうのが、これが一番わかりやすい。 で、えーっと 今までずっとやってきたのはデカルト的な機械論的生命感だけ インプットよりもアウトプットの成長重視、加速制御論 部品の層はイコール生命、これ今までありましたよね、足し算なんですよ 要するに機械の部品を足して、それを機械のカメラのようにね 部品を足していけば僕らの体が出来上がるんだっていう これは機械論的生命感になるわけ うーんこの機械論的生命感の例えばこれはですこれは間違ってるわけじゃなくてそういう考え方に乗っ取ると例えばさ 義手とか義足とかああいったものが発達に行くわけです手の代わりみたいな ただやっぱりその生命っていうことだけで捉えていくとちょっとそれだけで厳しいことがある これがでその後シェンハイマーの還元論的な生命観って渦巻き方循環的サステナブルシステムという 動的なもんだよね機械論的生命観ってのは性的な止まってるわけ なんだけど、詰まってるんだけど、この新海馬の関係の的な生命観で渦巻きみたいにすぐに動いてると。 まあ、言い分かりやすく言うと、あのさっきの一番最初の、あれだね、あの、グワーッて動いてる絵だよね。 あれなんですよ。

この人のまとめがさ、すごいわかりやすいんだけど、絵が微妙に下手で。 なんつってんだよ、これ、妙なクセ字と共にね、味わいがあるんだよね。 さて、生命の神秘は機能回復性なんていう感じだね 分子は生命体の体を通り抜いて環境に戻る、さっきのようにね 生命体ってのは 生命ってのは結局分子がバーって通り過ぎていく中のちょっとなんか ニコゴリみたいにちょっと偏ったものだっていう風に考える そして結局人間ってのはただの管なんですよ 生命や人間っていうのはただの管で その管の中や管そのものを分子が通り抜けていく そうやってサスティナブルなシステムを作っているんだよという話ですね あとこれウイルスとか細菌とか話も出てますね この辺は実際の本を読んでもらえれば 結局、筆者が言っているバイオテクノロジーは人類にコントロールできないっていうのは なぜかっていうと 渦巻き型で常に動的なものだから捕まえられないって言ってる 20世紀はDNAの世紀と言われている。 21世紀は環境の世紀と言われている。

生命現象ってのはテクノロジー化できないわけ。 動的なものだから。 そうだよね。

だってテクノロジーってのは何にもないところから生み出さないといけないので、動きが最初からないといけないのよ。 結局そのなぜいつか常にかき混ざっているその流れの中にちょっと指を突っ込んで わかるかなこう ドロドロしたものがこうぐるぐるぐるぐる渦巻きのように回っている中にちょっと指を 突っ込むとそうするとなんかちょっとがねだけどろがちょっとこう一部固まったじゃない ですか それが生命なんですよ でどのように指を突っ込むどのように誕生するかっていうそのまあなんだろうな基礎研究はできるんだけどそれをテクノロジーをして生み出すってことはできないんだよね まあまあっていうのが福岡の主張であると 研究はできるけどテクノロジーにはできない産業化できないってこと この違いわかる 例えばじゃあ簡単に言うと 例えば素晴らしい文学作品があったとして 文学作品の研究ができるじゃないですか でもじゃあ 宮田くんどうですか 素晴らしい文学作品のテクノロジーできますか 宮田くんがそれをなんかインストールしたら なんか 夏目漱石を超える文豪としてこう 残るみたいな いや、できないよね。 それがテクノロジー化できないってことなんですよ。 ただ、起こったことであるので研究はできるよねっていう。

これが福岡のスタンスね。 つまり生命はアートだって言いたいんだよな。 アートだから誰もがアートを作らせるわけじゃないじゃないですか。 一部の天才しかできないんですよ。

産業化はできない。 けれども観察はあって研究はできるよねっていう。 これが動的な平行ですね。

ぜひ読んでもらいたいですね。 こんなにわかりやすく説明できる人いるの? っていうくらいびっくりする。

生物学者、例えばゆかわひできとか、ゆかわひできって文章くそ分かりづらいのよ。 周りくどくて。 なんだけど最近の人はすごいよね 生物学者とか法学部とかさ文学の趣旨でもなんでもないのにさ なんでも書けちゃうんだもんね すごい時代ね 失望の時代ですよ本当に まあでもねこの味わう側の人間とすればすげーいい時代という言い方もできるわけだ というわけで医者は自己を複製するシステム 遺伝子の時代の終わりを告げたわけですね 相互性質分解とかやはりバランスを保つことが生命であると 自らを壊すことっていうのが生命だと 自らを壊し続けること なるほど でもさちょっとこれ深いよね 深いよねってのはどういうことかっていうと 僕らがさ何か生きていて 例えば成長しようとか 何かを得ようとした時ってのはさ 常に自分をある程度壊さないといけない 取り入れて壊さないといけないって要素があるわけだよね だからその利己的な遺伝子的側面と 自らを壊していかないといけない側面が 両方あるんじゃないかなっていう気がしますね これはもちろん生命論の話なので まあなんていうかな 別にその日常に生かす 必要は全然ないんだけどちょっと僕がさっきパッと思ったらそういう感じ 確かに僕らすごく遺伝子に縛られてるじゃないですか 集中力とかものの考え方とか性別とか何もかもですよ が遺伝子遺伝子的なものに束縛されてって 結構そこから逃れることはできないまあ 私ちょいちょい言ってますけど私は結構 その発達障害で言うとその adhd の 局面はかなり強くてそこから逃れられない ですよ遺伝なるのこれね やっぱりさ、格上辿っていくとさ、すげぇんだよ。

マジ100年に遡っても誰もサラリーマンがいない。 それは働けないよねって話です。 だから、やべぇ、自己複製システムだ。

話なんですよ なんだけどあのその中で僕らも僕も一人の人間として生きていかなくちゃいけないってことを考えるとやっぱり自らを壊し続けなくちゃいけないわけ 遺伝子は変えられないっていうのが分かりつつもね この2つの考え方で、利己的でしか間違っているとか、全部は同時に平行なんだって考えるんじゃなくて、この2つをバランスよく自分の中にミックスさせて生きていくっていうのが、こういう文章のような時の一番の醍醐味なんじゃないかと。 そうですよ 例えばニュートン物理学が 例えばアインシュタインの量子力学によって 否定されたからといって ニュートリン力学が全部無効になるわけじゃないわけですよ そういうことすると一緒だね なるほどということです さてと、取りいける? これ。 えーっと。

あー、まだいけないか。 うん。 でもちょっと長くなったので一回切りましょうか。